美姫が現れた時、耕平は息を呑んだ。天使を見た、と思った。
整った顔立ち、つぶらな瞳、そしてあまりにも屈託の無い笑顔。その目で見詰められ、微笑みかけられると、生きててごめんなさいと謝りたくなる。汚れてしまった自分の存在自体を、許せない気持ちになってしまう。
「綺麗な子でしょ?」
辻本社長が、耳元で囁く。耕平は素直に頷いた。頷きながら、美姫から目を逸らすことができない。美姫もじっとまっすぐ耕平を見詰めて、目を逸らさない。
「でも、ちょっと知恵遅れなんだよね」
「なんですか? 知恵遅れって」
「まだ小さい頃に麻疹でやられてね。それが悪かったらしいんだよ」
驚いてまた、耕平は美姫を見る。美姫も相変わらず、耕平の目を見詰めている。言われてみれば、こんなにまっすぐ男の目を見続けていられるというのは、ちょっとおかしい気がしてくる。
「昨日、うちのスカウトが、街で声掛けたの。どう? 掘り出し物でしょ?」
「確かに、そうですね」
「一応、アンケート取ったんだよね。そしたら、たいていの事はOKでね」
「でも、SMはNGということですね」
「異常に怯えるんだよ、SMって聞いただけで。きっと、誰かに何か酷いことされたんだろうね」
「それじゃ無理でしょう」
「まあ、耕平ちゃん以外の人間だったら無理だよね」
「僕だって無理ですよ。最初に悪い印象持ったら、絶対にやりませんよ、SMなんて。まして、そんなに怯えてる人間が」
「まあ、僕は耕平ちゃん信じてるもんね。じゃ、そういうことで」
「そういうことでって、社長!」
「あ、美姫ちゃん、この人、美姫ちゃんの付き人。これから、美姫ちゃんのこと、色々と世話してくれる人だから、仲良くしてよね」
白百合美姫はぽかんとしている。芸名を、まだ自分の名前と感じられずにいるようだった。
社長は構わず、美姫のことを耕平に押し付けて、さっさと行ってしまう。携帯を取り出して、意識はもう次の仕事に向かっているようだった。後ろ姿を見送りながら、耕平は溜め息を吐いた。
「また、押し切られちゃったよ。本当に、強引なんだから」
耕平が目をやると、美姫はまだ、耕平のことを見詰めている。思わず、目を逸らす。耕平は今まで、こんな美しい女性にこんなに見詰められ続けたことが無かったのだ。
「ま、いいか」
耕平は、独り言のような、美姫に聞かせるためのような、小さな声でそう呟いた。
「美姫ちゃん、お腹、空いてない? なにか、食べにいこうか?」
白百合美姫は相変わらず、それが自分の名とは思えずにいるようだった。耕平は、今度は名前を呼ばずに話しかけてみた。
「お腹、空いてるでしょ? ご飯、食べにいこうか?」
にっこり笑って、美姫はこくんと頷いた。耕平の顔が、赤くなった。
美姫が台所で洗い物をしている。定食屋で昼食を済ませた後、耕平は美姫を自分の部屋に連れてきたのだ。入ってくるなり、美姫は台所のシンクに積み重ねられている食器を見つけ、洗い始めたのだ。
(結婚するってのは、こんな感じなのかな)
カシャカシャと食器の擦れ合う音を聞きながら、耕平は美姫の背中に安らぎを感じていた。こんな暮らしが、いつまでも続いてくれればと思った。
「ごめんね。そんなことまでさせちゃって」
「いいの。あたし、洗い物、得意だから」
そう言いながら、美姫は耕平の方に笑いかけた。
悲しい男の本能である。振り返って見せた美姫の笑顔に、耕平はむらっと来た。体を捻った時に、服の奥の美姫の肩が見えた。その、衣服の奥の肩のラインに、耕平は興奮してしまったのだ。
「美姫ちゃん、ちょっと」
耕平は美姫の両肩にそっと手を置き、部屋の中に導いていった。男と女が一つ屋根の下に二人切りという状況でも、美姫は耕平に対してなんの警戒心も払っていなかった。
「何? なにかご用?」
「ちょっと、ここに座ってくれないか」
「座るの?」
「そう。それで、体を前に倒して。両手を、背中に回して」
耕平は、美姫に気付かれないように、そっと麻縄の束を出してきた。だが、今まさに美姫の両手を拘束しようとしたとき、美姫が後ろを振り返った。
「いやああああっ!」
余りの大声に、耕平もびっくりした。美姫は予想外の素早さで、耕平の前から逃げ去った。
「あ! 美姫ちゃん、待って! 違うんだ!」
慌てて耕平が後を追う。美姫は部屋の隅で身を縮め、ぶるぶると震え始めた。黒目がちの瞳が恐怖で引き攣り、美姫は今にも失神してしまいそうに見える。
耕平は縄を投げ捨てた。
「ごめんよ、みきちゃん。ごめん」
そして、美姫の体を思い切り、抱き締めた。美姫は耕平の懐に身を委ね、そして泣き始める。ぽろぽろ流れ出した大粒の涙が、耕平のシャツを濡らした。
「岸田さん! 岸田さん! なにかあったんですか?」
悲鳴に驚いたご近所の人がドアを叩く。
「なんでもないんです。あの、ゴキブリが、ゴキブリが出たものですから」
「ゴキブリ? 止めてくださいよ、人騒がせな」
「すみませんでした。もう、大丈夫ですから。すみません」
近所の人が納得して帰った後も、美姫は耕平の胸の中で泣き続けた。耕平もまた、美姫のことを強く抱き締めて離さなかった。
「駄目だ。できない」
そして耕平は、美姫のことをさらに強く抱き締めた。いつしか、耕平の目にもうっすら涙が滲んでいた。
「美姫ちゃんを縛るなんて、僕にはできない。できないよ」
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