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「奈々美ちゃん、何食べたい? この店の定食、安くておいしいんだよ」
 耕平に言われても、河本奈々美は黙って小さく頷くだけだった。仕方無く耕平は、奈々美の分の料理も選んでやることにする。
「奈々美ちゃん、揚げ物は嫌い」
「いえ、嫌いじゃないですけど、後で胃にもたれるんで、ちょっと」
「そう、揚げ物は駄目なんだ。じゃ、煮魚定食か焼き魚定食、お刺身定食、この辺かな。どう?」
「じゃあ、お刺身で」
「お刺身定食ね。おばちゃん、トンカツ定食一つ、お刺身定食一つね」
「はいよ」
 店のおばさんが注文を通しに奥に引っ込んでいくと、耕平は改めて隣りの奈々美を眺める。
 背が低い。痩せている。顔も童顔で、大人しい服を着ていれば小学生と間違われそうだ。
(この子、大丈夫かな)
 川本奈々美はこれでもAV女優だ。もう、三本の作品に出演している。案の定、出演作品は女子校生ばかりだが、抑え目の喘ぎ声で恥ずかしげに悶える姿が好評で、人気が出つつある有望株だ。
 そしてその横に座っている耕平は、落とし屋だ。
 日本中で落とし屋を商売にしているのは耕平だけだろうが、要するに、SMエヌジーの女優の被虐心を目覚めさせ、SM作品への出演をオーケーさせるのが仕事だ。
 ターゲットの女優が決まると、耕平はその付き人に付けられる。勿論、耕平の本当の仕事は、その女優に知らされていない。
 耕平はその女優のマネージメントをしながら、相手を観察し、その女優をSMの世界に引き込む作戦を考えていくのだ。
 最初、辻本社長から次のターゲット、河本奈々美を紹介された時、耕平はいやな予感がした。この子にSMの味を覚えさせるのは相当苦労するぞと思った。
 奈々美はおとなしすぎるのである。
 M女はSの言うことを従順に聞く、素直でおとなしい女の子と、一般には思われている。だが、現実にそんな子は意外に少ない。
 考えてみれば当たり前だ。ぐるぐる巻きに縛られて、相手に好き勝手されるのである。もしとんでもない酷いことをされたとしても、ぐるぐる巻きの状態では逃げられないのだ。
 それでもあえてプレイを受ける。M女は度胸、なのである。
 耕平の見る限り、奈々美にそういう度胸は無い。ただおとなしいだけで、あえて危険を冒しても快楽を求めたいという、積極性が感じられないのである。
「社長」
「あ、耕平ちゃん、今度もよろしくね」
「いや、社長、今度は本当に、無理かもしれませんよ」
「またまたあ。耕平ちゃん、いつもそうやって脅かすんだからあ」
 初めから分かっていたことだが、辻本社長は耕平の戸惑いなどまるで気にしていない。とにかく、うまくいくことしか考えていない究極のポジティブ人間なのである。
 改めて耕平は、紹介されたばかりの河本奈々美を見た。
(なんだか、痩せたうさぎみたいな子だなあ)
 うさぎみたいだと思ったのは、なんとなくおどおどした、落ち着きの無い目のせいだった。
 うさぎというのは、全ての動物の中で一番弱い生き物だと聞いたことがある。
 うさぎの足が速いのは、敵から素早く逃げるためだ。うさぎの長い耳は、敵が近付いてくる気配を音で察知するためだ。そしてうさぎの目が頭の両横についているのは、自分の周りを360度見回して、敵を見付けることができるからだ。
 要するに、うさぎが天性持っている機能というか、特性は、全部逃げるためのものなのだ。狩りをするためとか、襲ってきた敵と闘うためとか、そういう機能を一切持たない生き物なのだ、うさぎは。
 でも、逃げる女はM女になれない。さあ縛るぞと言われて、自分から両手を差し出すことのできる女でないと。
 その時、部屋の外でぱんっと音がした。確かに小さい音ではなかったが、そうかといって、そんなに驚く音でもない。
 ところが、奈々美はその音に過剰反応した。
「きゃあっ!」
「わっ、びっくりした! なんなの、奈々美ちゃん。大きな声出して」
「………何ですか、今の音?」
「今の音? さあ、何の音かな?」
 辻本社長が、ドアを開けて外を覗く。どうやらファイルの束を落としたらしく、事務の女の子がしゃがんで必死で拾っている。
「あっ、社長、ごめんなさい。大きな音、立てて。びっくりしました?」
「いいよ、いいよ。いいから早く拾って」
 そして社長は奈々美に笑い掛けた。大したことなかったよと、笑顔で納得させようとしているのだ。
「ごめんなさい。私、音に弱いんです」
「いいよいいよ。奈々美ちゃんの、そういうところが可愛いんだから。ね、耕平ちゃん」
「そうですね」
 社長に合わせて愛想笑いをする耕平だったが、心中は穏やかでない。この程度の音に怯える女の子に、どうやってSMを教えればいいんだ。
「じゃ、耕平ちゃん、奈々美ちゃんのこと、よろしくね」
 意味深な言葉で、社長は耕平に挨拶する。奈々美の耳にはマネージメントをよろしくと聞こえるように、でも耕平の耳には、調教をよろしくと聞こえるように挨拶しているのだ。
「はい、任せておいてください」
 耕平も、意味深な表情で社長に返事をする。奈々美ちゃんを安心させるように満面の笑みを浮かべながら、目だけ不安そうな表情にして、辻本社長に自信が無いよと伝えようとした。
 辻本社長はそんな微妙な表情を読めるようなナイーブな神経の持ち主ではなかった。

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