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「本当はね、けっこう優しい父親だったのよ」
 少し落ち着いてきた摩耶女王様は、例によって耕平と酒を酌み交わし始めた。
 そして問わず語りに、父親の話をし始めた。
「私の我侭はね、何でも聞いてくれた。欲しいってものは大抵買ってくれたよ。行きたいと言った場所には、大抵連れて行ってくれた。まあ、世間の父親よりもだいぶん甘い父親だったよね。空けなよ」
「あ、すみません」
 摩耶女王様に言われて、耕平は慌ててグラスを空けた。摩耶女王様は、ウイスキーをビールのようになみなみと注ぎ入れた。
「大好きだったよ。私は本気で、大きくなったらあの男と結婚するんだと思ってた。母親にまで焼き餅焼いて、馬鹿みたいだろ? 空けろよ」
「あ、いや、もう手酌でいきますから」
「小学校の三年生の時だったかな。父親が急に居なくなっちまったんだ」
 摩耶女王様は自分のグラスのウイスキーを一気に飲み干した。そしてまた、グラス一杯にウイスキーを継ぎ足した。
「好きで好きで仕方が無かった父親が、ある日突然目の前から消えたんだ。その時の私の気持ち、耕平にゃ分からないだろうね。本当に、足元の地面が消えてなくなっちゃったみたいな感じだったよ。不安で、不安でさ。毎日玄関に立って父親が帰ってくるのを待ってたよ。母親の前で泣いたら怒られるから、いつも便所の中でめそめそ泣いていたんだ」
「お父さんのこと、本当に大好きだったんですね」
「あのころの私にとってはね、世界のすべてだったんだ」
 摩耶女王様は、グラスのウィスキーをたった三口で飲み干した。そしてまた、新しいウィスキーをなみなみと注いだ。
「父親が消えてからの母親は、それはもう滅茶苦茶でね。男は連れ込むし、酒は飲むしでね。私は毎日のように、あの女に叩かれていた」
 グラスに酒を注ぎ足す。
「それでも私は信じてたよ。いつか父親が、私たちを助けに戻ってきてくれる。そしたら母親も落ち着いて、元の平和な家庭に戻れるんだってね」
 グラスに酒を注ぎ足す。
「中学校二年生になった時、父親からの手紙を見つけたんだ。毎月、養育費を払い続けていたんだろうね。お金は入っていなかったけど、手紙が入ってた。妙子はどうしてる? 妙子に会いたいって書いてあった」
 突然出てきた名前だが、どうやら摩耶女王様の本名は妙子と言うらしかった。。
「私、封筒に書いてある住所の場所に飛んでいったよ。私も、とにかく父親に会いたかった。会って、聞いて欲しい話が山ほどあった。あの男が居なくなってから五年余り、私がどんなにつらい毎日を送っていたか、あの男に話して、慰めて欲しかったんだ。妙子、よくがんばったね、えらかったねって」
 そこで話が途切れた。耕平は摩耶女王様の方に顔を向けた。
 そして、息を呑んだ。
 摩耶女王様が泣いている。肩を細かく震わせながら、子どものように泣いている。
「庭で微笑んでいるあの男の横には、別の女が立っていた。母親よりもずっと若い女が。二人の前で、女の子が遊んでいた。私よりもずっと小さい、かわいい女の子が」
「摩耶さん」
「その時初めて知ったんだ。私と母親は捨てられたんだって。あの男は、私や母親との幸せな日々よりも、あの若い女との新しい生活を選んだんだって」
 そしてまた、摩耶女王様の言葉が途切れた。そして嗚咽するような声を上げながら、肩を震わせた。俯いた顔の辺りから、涙がポタポタとこぼれ落ちてくる。
 耕平は、そんな摩耶女王様の様子を、呆然として眺めていた。
 母親と二人きりのつらい暮らしの中、父親の存在は唯一の救いだった。その父親に、ずっと以前に裏切られていたことに気付いた時、摩耶女王様はどんなにつらかっただろう。苦しかっただろう。
 その辛さ、苦しさを、摩耶女王様はずっと押し殺してきた。少なくとも耕平が彼女と知り合ってからこちら、父親のことは一言も口にしなかった。
 だが、彼女はずっとつらかったのだ。心の奥底で、昔の心の傷の痛みにずっと耐えていたのだ。
 今、摩耶女王様は中学校二年生の女の子に戻って泣いている。長いこと、心の奥に押し込めていた悲しみに打ちひしがれ、泣きじゃくっている。
 耕平は、目の前に居る女の子のことが、急にいとおしく思えてきた。
「あ、な、なにをするんだ」
 耕平に、突然抱き締められて、摩耶女王様は動揺した。
「やめろ、何してるんだ」
「動かないで」
「離せよ、離せ」
「いいから、じっとしてて」
「その手を離せ、耕平、その手を、あっ!」
 いつまでも抵抗を続ける摩耶女王様の体を、耕平は力一杯抱き締めた。耕平の腕の中で身を縮めている摩耶女王様の体は、以外に小さかった。
「耕平、苦しい」
 摩耶女王様の抵抗が止んだ。両手で顔を覆って、また小刻みに背中を震わせ始めた。
「ううっ」
 女王様はまた、泣きじゃくり始める。耕平はただ黙って、女王様の背中を抱き締めていた。
 何か言葉を掛けてあげたい。慰めてあげたい。だが、何を話せばよいのか、耕平には皆目見当が付かなかった。
 だからただ黙って、女王様を抱き締めていた。時々髪を撫でてやる他は何もせず、抱き締めてやり続けた。
 どれくらい時間が経っただろうか。おそらく一時間近く、耕平はそうして女王様の背中を抱き締め続けていた。
 ふと、女王様が顔を上げる。
 耕平は、その潤んだ瞳にぞくっとした。それは、これまで耕平に対して一度も見せたことの無い、摩耶女王様の女の顔だった。
 女王様の唇が、耕平の唇にそっと触れる。
「耕平、縛ってもいいよ」
「え?」
「私のこと、縛らなけりゃいけないんだろ? 縛らせてやるよ」
 そして摩耶女王様は艶然として微笑んだ。その悩ましい瞳の色に、耕平は思わず生唾を呑んだ。

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