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 大和国生駒山系の奥深くにその尼寺はあった。
 武家の未亡人たちが集まるその寺は、一般にはあまり知られていない。それは、夫と死に別れ、家を失って世をはかなんだ女たちが、俗世を捨てて籠もるための寺であった。
 今日もこの寺を訪ねて一人の女が登ってくる。名を紗江さえと言った。共に奥女中を一人、連れている。奥女中の方はもう四十に近い年であったが、紗江はまだ二十そこそこの若さであった。
 つい半年前まで、紗江は信貴山城主松永弾正少弼久秀の側室であった。
 松永久秀は数奇な武将であった。初め、三好長慶の家臣であった久秀は、自力で大和一国を統一し、主人三好長慶の弟、安宅冬康を謀殺して主家三好家を支配する立場に立った。
 当時、室町幕府は弱体化し、政治の実権は管領細川氏が握っていた。その細川氏を実質的に牛耳っていたのが三好長慶であったから、松永久秀は天下も動かせる立場に立ったと言える。
 その後、将軍足利義輝を謀殺、東大寺に立て籠もった三好三人衆を攻めて大仏殿を焼き払うなどして、乱世の梟雄と恐れられた。織田信長が入京するとこれに下るが、その信長に対しても久秀は、二度に亘って叛旗を翻している。
 松永久秀が死んだのは、この二度目の謀反の時である。信貴山城に籠もった久秀は信長軍に囲まれ、爆死した。これが自殺なのか事故死なのかは定かではない。
 紗江は元々、大和の豪商の娘であった。それを久秀に見初められ、側室として召し上げられたのである。久秀爆死の当日、紗江は実家に居て難を逃れたのであった。
 梟雄松永弾正も、紗江にとっては優しい夫であった。久秀のことは忘れるように勧める両親を振り切り、紗江は出家の決心をする。山奥にひっそりと建っている尼寺、「妙韻寺」に籠もり、久秀の菩提を弔いながら余生を過ごす決心をしたのである。
 泣いて引き止める両親に別れを告げ、今、紗江はこうして、妙韻寺を目指している。
 既に季節は初夏に差し掛かっていた。紗江の額にも、供に連れた真砂まさごの額にも汗が滲んでいた。か弱い女の足には、山道の長旅は随分と辛そうであった。
「紗江さま、ご覧下されませ」
 真砂が前を指差す。
「あれが、妙韻寺ではございませぬか」
 言われて紗江が上を見上げる。確かに木の間隠れに、寺と思しき建物が見える。
「急ぎましょう」
 到着点が見えて、紗江の足取りは軽くなった。なおも足取り重い真砂を引き摺るようにして、紗江はその寺を目指した。

 中に入ってみると、こんな山奥にどうやってと驚くほど立派な僧坊が建っていた。人の気配は感じられないが、さらさらと流れる遣り水の音が微かに聞こえる。
「ごめんくださりませ」
 紗江に代わって真砂が奥に呼ばわると、足袋が畳を擦っていく音が奥の方から聞こえてくる。しばらくすると、真砂と同年輩の女僧が姿を見せた。その女僧に向かって、紗江は静かに頭を下げる。
「紗江と申します」
「お待ちしておりました。どうぞ」 
 女僧は心得顔で紗江を奥へと招じ入れた。女僧は慈恵尼と言い、この寺の女住職妙徳尼を補佐している尼であった。
 一番奥まった部屋に、老尼が座っている。それが妙徳尼であった。よわいは六十を越えて、もう七十近いであろうか。枯れ木のように痩せていたが、背筋はすうっと真っ直ぐに伸びている。もしかすると、足腰は紗江や真砂よりも強いかもしれない。
「紗江様、よく参られましたな」
 静かな、それでいて通りの良い張りのある声で、妙徳尼は紗江に挨拶をした。紗江は静かに頭を下げた。
「剃髪をする前にもう一度確かめておくが、現世に未練は無いのですね?」
「ございません」
 紗江はきっぱりと言い放った。
「一度この世を捨てれば、二度と戻ることはできないのですよ。それでも良いのですね?」
「はい」
 紗江の決心に揺るぎが無いことに満足した様子の妙徳尼は、にっこりと微笑んでみせた。こうして笑うと、尼の年は十ほど若返って見えた。
「慈恵尼、剃刀を」
「畏まりました」
「さあ、紗江殿、こちらへ」
 言われて紗江は妙徳尼の前に進み出て、くるりと後ろを向いた。妙徳尼の持った剃刀が、紗江の髪に当てられる。
 髪を全部切り落とすのではない。肩に掛からぬくらいの、おかっぱに切るのである。それにしても、当時の女たちにとっては大変なことであった。静かに髪を切られている紗江の姿を見ながら、真砂は涙を流した。
「紗江様、今日から美翔尼と名乗られるがよい」
「美翔、でございますか」
 僧の名にしては生臭いと、紗江は少し気になったが、妙徳尼の言う通りにすることに決めた。
「さ、できましたぞ」
 言われて紗江は鏡を見る。綺麗に髪を切り落とされた紗江の姿が鏡に写っている。後ろからは、相変わらず真砂の啜り泣きが聞こえてくる。
 こうして紗江は、出家した。

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